- 上がらない売上
- 代表面談
- 拠点撤退と3回目の転職活動へ
上がらない売上
リーマンショックが発生してからは以前にも増して求人媒体への掲載は加速度的に激減していきました。前年比20%ダウンというレベルでなく50%以下まで落ち込んだように記憶しています。
テレアポの打電数だけが右肩上がりになっていくものの、アポ率、アポ数、契約数、売上、粗利益すべての項目がきれいに右肩下がりに落ちていきました。社内の雰囲気も殺伐を通り越して悲壮感が漂っています。
いくらテレアポしようとも受付から返ってくる言葉は「現在、採用はしておりません」「担当は席を外しています」のどちらかです。正直、営業特化型のブラック企業時代を思い出しました。
1日300件テレアポをして1件アポを獲得していたあの時代と比較するとそこまできつくはないのですが、それでもアポ率5%、10%に慣れてしまっていたため非常に厳しく感じました。この会社でテレアポを初めて経験したメンバーはそもそも5%、10%のアポ率が普通という感覚があったので、次々に心が折れて脱落(退職)していきました。
立ち上げた拠点には最大10名を超える営業職のメンバーが在籍していましたが、2008年末には5名ほどまで縮小していました。拠点長候補で入社した幹部候補もそのころにはいなくなっていました。
代表面談
いよいよメンバー全員の気持ちが折れかけた2009年1月、代表が拠点を訪れて1人1人と面談をすることになりました。すべてのメンバーに緊張が走りましたが、特に営業職のメンバーが「詰められる」と思いその日を戦々恐々と待っていました。
ついに代表との面談の日になり、拠点から徒歩1分の距離にあるカフェに1人1人呼び出して面談を進めていくことになりました。
ぼくの順番は3番目くらいだったと思います。2番目のメンバーが拠点に戻り、ぼくにカフェへ向かうように力なく話しかけてきました。心の中で「あー、めちゃくちゃ詰められたな」と思いながらカフェへ向かいました。
カフェの2階にある窓際のソファに代表が座っており、コーヒーやらオレンジジュースやらのコップがいくつも並んでいました。ぼくもアイスコーヒーを注文してソファに腰をかけました。
「どうしたら会社はよくなると思う?」
正直、詰められることしか考えていなかったので意外な質問でした。当時のぼくは「自分もできていないことが前提で」みたいな保険を打ちながらいくつかの改善点を率直に伝えました。「打電数が少ない」「提案前のロープレが少ない」「利益率の高い商材はサービスとして競合他社に劣る」など、いま振り返ると「めちゃくちゃダサい」回答に加えて、「自分もできていないことを先に伝えて自分が責められることを避けようとする」保険を打つ姑息さで吐き気がしそうです。
そのころは自分を守ることに必死でこの発言がどれほどダサいかということに気付いていませんでした。
それでも代表は静かに最後まで話を聞いてくれて「ありがとう。まだまだ会社はよくなりそうだ。つらい時期だけど一緒に頑張っていこう。」とダサすぎるぼくに声をかけてくれました。
この時の代表の顔はいまでも忘れられません。あれから10年以上連絡も取っていませんが、いつかお礼と謝罪をしたいなと思います。
拠点撤退と3回目の転職活動へ
代表との面談が終わり、多少やる気になったところで市場は最悪のままです。テレアポをいくらしようが返ってくる言葉は「採用はしていません」「担当は席を外しています」だけでした。
右肩下がりは底が見えず、ひたすら一直線に売上が落ちていきました。
営業成績は目もあてられないような数字が並びました。ひどい月は営業5名中2名が売上0円というような事態になっていました。いま思うと営業にでたふりをして転職活動をしていたのかもしれないなと思いました。いくら市場が悪いとはいえ売上0円は狙ってもなかなか難しいからです。
とはいえ、自分も自分の給料が出るかどうかの数字しか売上を作れていないので人のことは言えない状態でした。俗にいう「営業は自分の給料の最低3倍稼ぐ」という水準にはまったく届いていませんでした。この自分の給料の3倍というのは当然業界にもよるのですが、営業は営業事務や管理部門に支えられて仕事をしているのだから粗利益で自分の給料の3倍以上を稼がないと存在価値がないと言われていました。
自分の給料分しか稼げていないということは管理部門や事務の給料はもちろん、オフィスの賃料や光熱費、福利厚生費なども出ていないわけですから、立派な赤字社員です。
ぼくがいる拠点だけでなく本社含めて全社的にこのような状況でしたので、拠点を撤退するという判断になるのにそう時間はかかりませんでした。
2008年4月、ついにその日がきました。
年度末の人事考課という名目で拠点長からミーティングルームへ呼ばれました。
たしかに、人事考課の面談だったのですが内容が当時のぼくには厳しすぎました。
「本社にくるか退職するか」「本社に来ても給料は月7万下がる」
本社は東京なのですが、東京に行くどうこう以前に給料が7万円下がることに耐えられずその場で退職を選びました。自主退職扱いだったことに少しひっかかりましたが、そんなことはどうでもいいくらいに疲れてしまいました。当時の拠点メンバーの中では2名だけが会社に残る決断をしました。
ぼくは自己都合の退職なので失業保険がでるのも3ヵ月後です。しかし、一人暮らしなので家賃も光熱費も待ってはくれません。来月からは給料がなくなるので、急いでインテリジェンス(現パーソルキャリア)のAさんに連絡をとり、転職活動を開始しました。今回もきっとすぐに次の転職先が見つかると楽観的だったのですが、今回の転職はそんなに甘くありませんでした。そのときの話はまた改めて。
結果的にその会社はつらい時期を乗り越えて急成長し、採用以外の分野にも事業を多角化することになります。
拠点撤退後の話をたまに聞いたりするのですが、立て直しの過程では過酷という言葉では足りないくらいの現場での挑戦に勝ったんだなと結果を残したうらやましさと、心が折れた自らの弱さを悔やむ感情とが入り乱れてなかなか以前は複雑な思いで聞いていました。
撤退戦においては挑戦から逃げたものにはなにも語る資格はありませんね。いまは素直にすごいなと尊敬だけができるようになりました。あの当時に戻ってもう一度選択をするチャンスがあったとしても、きっとぼくはもう一度退職を選ぶと思うから。
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